教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

座長芸ときどきカマトト

座長と議長

座長と言われる立場に立ったことがあるだろうか。 何人かのメンバーが集まって何かしらの意見を出すときに、そのとりまとめと調整をする立場のことを座長と言う。

政府の〇〇有識者会議などでも座長という言葉が使われる。

議長と比較をしてその役割を見てみよう。 議事進行を第一の役割とする「議長」とは、主に自分の意見をどの程度述べるかという点で大きく異なるというのが個人的な見解だ。議長の立場であれば自分の意見を述べることは許されない。意見のある人間を指名し、発言をさせ、不適切な場合があれば適切な説明を求める、くらいである。

とはいえ、「議長」が能力を発揮する方法はちゃんとあるので、それは別の機会に譲ることにする(筆者はそれなりに「議長」経験も豊富な人間である)。

座長芸

座長に目を転じると、その人自身何かしらの役割-例えば何かしらの職能や専門的な知識の提供-を期待されて会議体のメンバーになっているのだから、自発的な意見を発しないということはほとんどない(逆に言うと、そこで議長の役割に徹してしまうと、本来そこで代表するはずであった立場や専門性が結論に反映されないこととなり、望ましくない。)。

自分の意見を出しつつ、他の人の意見も出させ、全体として納得のいく着地点に持っていく、これが座長の仕事だろう。この仕事を遂行する能力をもって「座長芸」と読んでいる。僕が、勝手に。

意見をまとめる

意見をまとめる際にはいくつかのパターンがある。簡略化して5人が話し合って、事象Aに対する評価を1~5の5段階で結論づける場合を想定してみよう。事前に事象Aをどの段階と評価するか各参加者が宣言しているものとする。

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全会一致
一番簡単な場合から見てみよう。全会一致である。 この場合はそのまま評価は3であると結論づけて良いだろう。

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少し割れた場合
少し割れた場合である。これも難しくない。おそらく3~4のどこかに実際の評価があり、4寄りだろうから、全体としても4と結論を出そう。もし選択できるなら3.5にしよう、と結論を出せる。あまり異論はないだろう。

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外れ値が出るパターン
難しいかつ、座長の腕の見せ所となるのはこういう局面だろう。 この場合1点を付けた1人だけ他の人と大きく違う評価をしているので、その背景を探る必要がある。

  1. 事象Aを誤って理解している
  2. 専門的な知識によってその評価をしている
  3. 異なる観点に立っている

などの背景が想定できるが、いずれにせよ、その判断をするに至った背景を1点を付けた人に言明してもらう必要がある。

カマトトの出番

ようやくカマトトの出番である。カマトトとは知っているのに知らないふりをすることを言う。

1.事象Aを誤って理解している パターンなどが分かりやすいが、正面切って理解の不足を指摘したりすると軋轢を生む。したがって、事象Aを一番深く理解してもらっている人に説明を求めることになる。余談だが、こういう時に誰に発話を求めるのかを正しく決められるように"who knows what"をちゃんと覚えておくことがとても重要である。

さて、説明を求める際に「これについて説明をしてください」と言うよりも「この点が良く分からなかったので、追加で説明をお願いできますか?」と誰かが発言をした方が良いだろう。立派なカマトトである。一番の適役が座長である。

発話の主導権を相手に渡すよりも論点を絞れる上に、1点の評価を理解の不足や誤りによって付けた人に知識の不足や誤解という点でプライドを傷つける可能性を下げられるからである。

2.異なる観点に立っている場合であれば、論点を明示することだろう。「今回は〇〇の観点からこの点について議論したいのですが異論はありませんか?」のような座長の発話だ。多くの場合、会議の参加者は自分の思考の経路依存性に自覚的ではない。そこを自覚してもらうことで議論の共通の土台に立てる。

もし1点の評価をした人が重要な観点から言っているのであれば、ここで発話がある場合が多い。発話のハードルが高い人であればここで水を向けてもいいだろう。

3.が一番難しい。場合によっては少数意見であるこちらを全体の結論として採用することがありうるからだ。 少数意見を採用する場合には、他の参加者に納得してもらう必要がある。意見を詳述してもらう必要があるので、1点の評価をした人とその人の専門性などの背景が一致しそうな場合には意見を求めることになるだろう。ここでもカマトト戦術が有効である場合は多い。

まとめ

  • 自分の意見を述べつつ全体として結論を出すのが座長。
  • 参加者それぞれの背景は把握しておくことで円滑に話を回せる。
  • カマトトによって意見や知識を引き出すと合意形成の上で役に立つことが多い。
  • 角が立たず、合意に向けてカマトトをしやすいのが座長である。

以上のことから、知識の分布がわかっている教養学徒は座長に向くと思うんですよね。

合意形成のための交渉学については松浦先生の『実践!交渉学』と故瀧本先生の『武器としての交渉思考』をぜひご覧ください。

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知識の偏りを知る

知識に偏りがあり、それに無自覚である

時間は有限です。人生で学ぶことができることの総量も限定されています。

しかしそれ以上に、現在の自分が何を知らないのか、ということを知らない。普通にしていたらそれに自覚的になる機会すら少ないので、客観視する方法を考えてみました。

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NDCビンゴ

NDCビンゴ

いたった結論がNDCビンゴ。なおビンゴ要素はありません。

使い方は簡単。0類~9類それぞれの欄に好きな本を埋めるだけです。読書記録とにらめっこして埋めてみてくださいね。 これで埋まらなかった分野については、自分の知識が全然ないということが分かります。 作る過程にも意味があって、容易に埋められるところは興味が強いということですし、なんとか埋められたというところは弱いことを意味します。

NDCとは

NDCは日本図書十進分類法のことです。図書館に本が入ってくるときに、これはこの分野の本~と分類しているのですが、その分類のことです(ざっくりと)。 世の中の知識を0~9に10分割して、その中でさらに10分割して…と分類しています。

岡山県立図書館のページが分かりやすいのでリンクを貼っておきますね。

www.libnet.pref.okayama.jp

その本がどのNDCに分類されるか知りたければ、国立国会図書館の蔵書検索サービスNDL Onlineあたりで検索してみると良いと思います。

ndlonline.ndl.go.jp

出版点数は一律じゃない

分野によって本が沢山出ているところもあれば、あまり出ていないところもあります。そのあたりは少し留保しておいてください。

今後の発展

やっつけで作ったので、課題があります。

このワークシートで見られるのはあくまでその領域の本を読んでいるかいないだけなので、どこにどれくらいの興味があるのかという濃淡は見えません。高さや色の濃さなどでもう一次元増やした方が面白そう。

一次区分(類)しか見えてないので、二次区分含めて見られるようにしたいな。読書記録系のものと連動して、ISBNからNDL SearchのAPIでNDC取ってきて自動化、とかできそうかしら。勉強がてらやってみる…?

もともとは司書用

自分の知識の偏りを知る、というかどこに大きな穴があるのかしるためのワークシートは後輩の司書の研修と自己紹介の目的で作成したものでした。

研修:自分の知識の穴を知る

司書はレファレンスで何を聞かれるか分からず、全分野について何かしらの知識が必要になります。一方で司書の養成課程、と言いますか司書になるまでの専攻などを見ると文学部系に大きく偏っているのが実情です。

ですので、一度自分の知識がどういう分布をしているのかを把握してもらおうという意図で埋めてもらいました。 1年後には一次区分の0類~9類まで、3年後くらいには自分の主題周辺について二次区分の綱まで埋まるようになっていることでしょう。

自己紹介:意外な共通点や趣味を知る

自己紹介というのはいつも難しいものだと思っていますが、結局はその人を理解するために深堀できる話題を探す作業だと思っています。

「好きな本」みたいな聞き方をすると、たまたま村上春樹が好き!みたいに一致する場合は良いのですが、「ふーん、それが好きなんだ」で終わりやすいです。というのもとってもメジャーな本を出すのは司書としてどうなの?みたいな謎のプライドが働いてセンスのいいマイナー本紹介の様相を呈するからです。

そうは言ってもそんな不毛なマウントを取りあえる領域は自分の専門と913(日本の小説、物語)くらい。それ以外の領域でその人の意外な趣味・興味や共通の話題が見つかったりもします。

そんなわけで初めて会った人との自己紹介にも役に立ちますよ!(当然ですが、使う場はよく吟味してください。相手に恥をかかせないように)

他人の生業にただ乗りしない

他人の生業にただ乗りしない

他人の生業にただ乗りしない、これは僕のスタンスの話。

専門的に技能をもって生業としていると、それをただ利用させてくれ言ってくる人が多く出てくる。

多くの場合、それはその専門性に対して無自覚なまま依頼がなされる「え~〇〇できるの?ちょっとこれやってほしいんだけど」

これが大変嫌いだ。

ちょっとくらいなんだし良いでしょ、というのが多くの場合の言い分である。分からないではない。実際に短時間で終わることも多い。

ただ、そこにリスペクトを感じない。

準備

専門性を発揮するまでには準備が必要である。今となってはすぐにできるのかもしれないが、そこにいたるまでに多くの時間を費やしてきているというケースは多い。依頼する側に見えている”ちょっと”は多くの時間の上に成り立つ”ちょっと”なのだ。

資源

専門性を発揮するために資源が動員されていることも多い。例えば画像編集であればそのために高い性能のPCを用意し、DTPソフトを用意し、ペンタブを用意しているかもしれない。

金銭を支払う

専門的な能力を借りるのであれば、特に相手がそれを生業としているならば、相応の額の報酬を用意するのが筋だと考えているし、僕の場合はそのようにしている。

大工に工房を借りるなら利用料を払うし、文筆家に原稿を依頼するなら原稿料を払う。

利用の目的が私益とか公益とかは関係なく、 報酬を用意するのが適当であるならば用意する。

第一にはその専門性に対するリスペクトであり、 第二にその時間で金銭価値化される労働ができないことへの補償だ。

”お友達価格”が適用されることがあるとしても、それはこちら側が言い出すことではなく、向こうから言われることだと思っている。

報酬の種類

結局現金が多い。

価値の解釈に幅の発生しようがないため、あまり現金による支払いは好きではなく、本当は物品に依りたいのだが、簡便さに頼って現金を選択することが多い。

食事などで礼に替えることもある。 ただ相手がその時間/コンテンツを楽しむかは分からないので関係性によるところが大きい。

支払いの基準

ここまで書いておいてなんだが、 ”ただ乗り”しないことを重要視しているので、互恵関係の時には報酬の支払いはなされない。どこかでその分お礼できるのが確実であるような場合だ。

互恵関係には長期的なものも含む、というよりも長期的な関係でないと互恵の相殺ができないので、長期的な関係は前提である。

内発的動機付けがある場合

内発的動機付けによって動いている場合、例えばミッションに共感して事業に参加してくれている場合などでは、外部から報酬を与えてしまうのは無意味どころか悪影響である。したがって、金銭的な報酬は出さないのだが、この判断基準が結構難しい。

自分の場合

まぁ、結構多くの相談を寄せていただいている。思考を加速させる存在であるとか、僕であれば辿り着ける情報があるとか思っていただいているのはありがたいことだ。

同時に”ただ乗り”は僕も許容していない。 専門職であるという自負はあるし。 なので

  • 僕にとっても面白い/有益な案件であること
  • 長期的に何らかの形で僕にお礼をしてくれること のどちらかは求めたいなぁと常々思っている。

立場上、受け取ってはいけないお礼ばかりあるので、僕が困っているときになにか助けてくれる、みたいな形のお礼が一番うれしいですかね。

-- 一応、明言しておきますが、全て本業以外での話です。本業については雇用主からお金が出ていますのでつべこべいわずにちゃんとやりますよ。

新しい分野の勉強法。概説書は2回読む。

概説書は2回読む

新しい分野の勉強を始めるときに、概説書の類から始めることが多い。いきなり専門書に入るなんてできない。

ここで1回目。まずは概説書を読む。 放送大学の教科書があれば優先して取り組む。全15回で参考文献リストもついていて、小テストによる簡単な理解の確認もできる。著者も一流の研究者ばかりだ

社会科学系であれば有斐閣アルマに存在することが多い。難度が示されているため、概説書なのに分からん!となることが少ない。

社会科学の中でも経済学は鉄板の教科書があるので、それを読んだら良いと思う。

専門に立ち入る

大まかな像が描けたら、少し専門の度合いを高める。 概説書で言及されていた文献を読む。自分が必要とする分野・興味がある分野を深めていく。この辺でキーワードが分かり始めると、Cinii Articlesなどを叩きだす。図書館の件名を引いて上位語を確認したりする。

専門は専門だけで成立することは少ないので周辺分野も勉強していく。

独学の場合、自分の理解度を確かめるのが中々難しいという問題がある。変な理解をしてしまっていることもあり、たまに恥ずかしい目にあう。

感情を意図的に動かす

専門的な勉強に限る話ではないが、難しいことを学ぶ時ほど意図して自分の感情を動かす。

単なる情報は記憶に定着しにくい。

自分が既に持っているものと関連付けられると記憶には定着しやすくなる。

感情というのもその一つの鎹だと思っていて、 同じ話を聞くときにも表情を動かさずに聞いているときと、 わかるわかると頷いたり、それ〇〇見落としてない?!とツッコミを入れたりしながら聞いているときだと後者の方が記憶に残る。対象実験をしたことはないが…。

悲しいことに世の中必ずしも面白い話ばかりではないので、意図してそういった感情を動かすことが必要だと思っている。

概説書に戻る

さて専門をひととおり学んだらで概説書に戻る。2回目。

専門で学んできた内容が、全体像のどこに位置付けられ、専門同士がどのように関係するのかが見えてくる。

例えるならば、レゴで家を作って屋根をはめるあの感じ。 勉強がうまくできていれば、スッときれいに入っていく感じがあり、その感じがないなら、おそらくどこかに理解の漏れがある。もしくは偏り。

この作業をすると、自分が何を知りたくてその勉強を始めたのか再確認しやすくてよい。

なので、概説書は2回読むと良いと思う。間違っても捨てないように。投資対効果は良いですよ。

www.ua-book.or.jp

www.yuhikaku.co.jp

id.ndl.go.jp

ci.nii.ac.jp

自転車を降りる-哲学的な思考を止める方法-

 自転車に乗るようなもの

「哲学をするとは自転車を漕ぐようなもの」というのが、学部の頃に指導教員から言われた言葉だ。彼の専門は西洋哲学。哲学的な思考方法は一度身体にしみついてしまえば、いつでも思い出すことができる、という趣旨で言ったのだろう。哲学的な思考と言うと難しそうに聞こえるが、内実は問題を適切な大きさに分割し、それぞれについて、本当にそうなのかということを考え続けることを通して「普遍的なもの」を見出そうとするだけである。そしてそのための切っ掛けとなるものを、あらゆる機会に見つけ出そうとする姿勢を伴うものだ。

確かに、僕は哲学的な思考と言われるものができるようになったのだが、同時にそれを自分の意志でやめることができなくなった。

はっきり言って、この状態は日常生活に支障をきたす。日常の知と哲学的な知というものが相互にかなり異なり、不適合を起こすからである。

そんなわけで友人には愚痴を言っていた「自転車の乗り方は教えてもらったが、降り方は教わらなかった!どうしてくれるんだ」と。もっともその友人の返答は「先生は、お前が気づいていないだけで、降り方もちゃんと教えていたと思うよ」だったのだが。

Way of Thinking を切り替える

こうして僕の自転車の降り方を求める思索が始まったわけだが、なかなか解には至らなかった。だいたい7年くらいかかっている。

解にいたったのは、ふとした瞬間だったと思う、自分が科学の考え方と政策の考え方を切り替えた瞬間を自覚した時だ(大学院からは科学技術政策・STSの方に主軸を置いている)。思考パターン(Way of Thinking)を切り替えることで哲学的な思考を止めることができる。

「自転車から降りる」「哲学的な思考を止める」ということではなく、「別の思考パターン(Way of Thinking)を呼び出して乗り換える」が正しい表現なのだろう。

言ってしまえば、取り組み方が間違っていたのである。人は何者でもない状態でいられない以上、規定された状態から外れることはできない。この場合哲学的思考を止めることはできない。できるのは他の枠に乗り換えることだ。

もちろん、解にいたるまでの100%の時間を哲学的思考に支配されていたわけではない。自覚的に思考パターンWay of Thinkingを客体として扱えるようになったのがこの時ということである。

楽になる

自分はこれで楽になったと思う。

自分の思考パターンによって隘路に押し込められているなら、その思考パターンごと外に出れば良いのである。重要な問題ならまた日を改めて取り組めば良い。

難しい部分はあるけれども、多少コントロール可能になることで隘路の息苦しさからは逃れられる。そう、哲学的な思考を自分を追い込みやすい思考パターンの一つだ。

順番としては「それ以外」の何らかの思考の方法を定義することが最初だろう。日常の認知でもいいし、科学的思考でもいい。その思考パターンを呼び出そうと練習すればたぶんできるようになる。

注意書き

  • 「先天的な哲学者」と僕が呼ぶ人たちにこれがどこまで有効かは分かりません。
  • 副作用はあると思います。意図せず自然に日常に戻れる方がより安全です。

気になる日本語1「本音の声が届きました」

「本音の声が届きました」

塾の広告で見かけた日本語である。志望校に合格した塾生が、いかにその塾が良いかコメントを寄せたものが掲載されていた。

気になったのは「本音」と書かずに「本音の声」と書いていることだ。

タテマエとホンネの悪影響?

タテマエとホンネが一般的にも広まったのは、日本人論ブーム以降だろうか。タテマエが「内心とは異なる表出された意見」とみなされ、ホンネがそれと対になるものとする。

特にタテマエが「表に出していい意見」である領域においては対であるホンネの意味が「表には出せない否定的な部分を含む意見」となってしまう。 利用者の声などの形をとって宣伝をおこなうことの多い広告では、表出された意見=タテマエとみなされやすくなってしまい、いたずらにホンネと言おうものなら否定的な意味が見出されてしまうのではないかと推測する。 日常における用例を見てみると

  • A「ケーキはおいしかった?」
  • B「おいしかったよ」
  • A「本音は…?」
  • B「ちょっと甘すぎてしつこかった…」

このようにのように、相手との関係から肯定的な意見を最初に述べざるをえず、 そこに遊びの関係がある場合には否定的なものを含むホンネを出しても良いというのが定式化されていないだろうか。

塾の広告の例にもどれば、その場において塾への否定的な意見が述べられることはまずないので、読者はその塾生の意見を事実を含むにせよタテマエとして受け取る。そのことが分かっているので、内心から良い塾であったと塾生から評価されていることを示したいと考えて「本音」という表現を使おうとしたものの、「ホンネ」には否定的な意味合いがついてしまっているために「本音の声」として「ホンネ」とは別であることを示そうとした苦心の表現なのではないかと勝手に推測している。

「素直にうれしい」

同じ種類の表現だと思っているものがスポーツなどのインタビューで耳にすることの多いこの言葉だ。

うれしいと言えばいいのに、素直にうれしいとわざわざ言う。強調の意味で「素直に」を用いているのだろう。 これも塾の広告と同じ構造だと思っていて、以下の経路をたどっているのだと推測している。

  • スポーツマンたるもの、肯定的なコメントしかしてはいけない ↓
  • 否定的な部分を含む内心の部分においてすら、うれしいという肯定的な意見をもっている ↓
  • ”すごく”うれしいの意味で「素直にうれしい」と表出

小泉首相(当時)の「感動した!」に代表される、感じたものをそのまま表出するのが良いことであるという言説とも関係があるのだろうが、同じようなことを書いている人がたくさんいるので、そちらを参照してほしい。

2019年面白かった本5冊+α

(この原稿は2020年1月7日に公開したものの再掲です)

あけましておめでとうございます。

脈絡も何もないですが、2019年に読んで個人的に面白かった本の上位5冊+αを紹介します。 2019年はとっくに終わったとか、新年始まってどれだけ経ったのかとか怒らないでください。 大晦日に楽器ケースの中から最大級のビッグニュースが飛び出ることもあるし、 それにほら、まだ松の内ですからね。

注意事項

・あくまで僕にとって面白かった本です。一般的なおススメとかそういうのとは違います。 ・それだけだと余りに酷いかなと思ったので「こんな人に⇒」を用意しました。

1.山口富子他『予測がつくる社会』

・こんな人に⇒不確実性を扱うことに興味のある皆様。特に科学技術政策まわり

悩みましたが、一番面白かったのはこれ。 期待社会学と言われる領域を紹介する本、とまずは紹介させてください。 論文集の形をとっており、一貫するテーマは現代社会の様々な領域に深く浸透する予測と社会のかかわりです。「科学的予測なるものの圧力が増大するなかで」帯からの引用ですが、とてもしっくり来ると思いませんか。 防災、先端バイオテクノロジー、DNA型鑑定といった個別テーマからシミュレーションとモデル化といった手法の話、そしてそもそも予測をする=語るという行為がどのように社会をつくるのかといった内容も出てきます。そしていずれの論文も質が高い。面白い。 惜しむらくは、「政策と予測」の章が今一つなことで、このテーマならEBPMとか期待形成とか技術予測による政策への影響とか、もっと面白いもの書けるでしょ!と思わなくはないです。その部分は今後の課題ということで、界隈が今後頑張ればいいのかなーとも思います。他人事ではないのですが。

2.キャス・サンスティーン『熟議が壊れるとき』

・こんな人に⇒熟議という言葉が大好きな皆様

良識ある人たちは、特に政治の領域において、話し合えば一番いい結論に到達できる、なんて考えがちではないですか。 もちろん、話し合い、討論、熟議そういったものがとても重要なのはもちろんです。ただ、場面場面に適した話し合いの手段ってそれぞれにあるんだろうなとボヤボヤ考えていた時にこの本を教えていただきました。著者のキャス・サンスティーンは憲法学者。天才ですよ、この人は。 熟議という場でどのように結論が出されるのか-この本の中では、極端な結論に至ってしまうメカニズムが示唆されているわけですが-を探る一章はもちろん素晴らしいのですが、司法が憲法判断をする領域を最小限にすべしという司法ミニマリズムの主張を踏まえて、それでも射程を広げなければ場面について論じる第二階の決定についての三章から五章の内容も(予想外に)思考に刺激を与えてくれる素晴らしいものでした。惜しむらくは自分の憲法についての勉強の浅さであり、もっと分かっていればもっと楽しめるに違いない!と歯がゆく思っております。

3.ブルーノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す』

・こんな人に⇒理論と経験がなんかしっくりこないなと悩んでる皆様

アクター-ネットワーク理論(ANT)についての、ラトゥール自身による入門書です。入門書?入門書。 思い返せば、自分たちはなんと安易に「社会」という言葉を利用していたのでしょうか。社会問題だ、社会的責任を、社会現象となった。その社会って何を意味してるの。なんか良く分からないものをまとめて社会って言葉でごまかしていませんか。 ラトゥールが提唱しているのは、丹念に事例を見ましょう、そして記述しましょう、ということに尽きます。社会って言葉で覆い隠すのではなくね。でもこれが難しいんです。僕たちはすぐに既存の理論を援用しその枠組みに当て嵌めようとします。ひどい場合には、そもそも言いたいことが決まっていて、その言いたい構図に押し込めるために無理矢理な解釈をする場合すらあります。 "社会"は個に分解されない創発特性があるんじゃないと考えている人たち(僕もどちらかというとそっち派)にとってもこの理論はとても魅力的なんですが、 うーん、なんと言いますか、ANTとがっぷり四つに組み合ってしまったらもう色々と帰って来られないと思うんですよね。少なくとも普段の生活の方には。なので、ご利用は用量用法を守って計画的に。 折衷的な用法としては、事例に対して既存の理論を過剰に適用しないとか、メカニズムを解明してやろうと思うあまり過剰に変数を減らさない・固定化させないとか、そのあたりに落ち着くのかと思います(といいますか、僕の場合はアリさんにその辺で落ち着いてもらいました)。 正直に言えば理解が全然深くないので、もう少し深める機会が必要です。

4.米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

・こんな人に⇒なんか以前と比べて小説が面白くない気がすると悩んでいる皆様

チェコとロシアを舞台にした小説です。分類するならミステリでしょうか。扱われる言葉がきれいで、メッセージ性も強く、読んでいると普段よりも心拍数が上がってしてしまう本でした。切実、という言葉がやはり合います。 最近なんか小説を楽しめないんです。この程度の読書量で楽しむも楽しまないもないとは思うのですが、書店で〇〇賞とか××先生絶賛とかポップのついているものを手に取っても、アラばかりが目に付いて…と思っていた時にこの本を教えてもらいました。 反語というのは意図するのと逆の言葉を敢えて使いながら、その物事を表す用語法です。酷く下手なものに対して「すばらしく上手だ」というような。 実際に生活の中で使ってみると、より実感をもってこのお話が伝えたかったことを理解できるのかな、と思います。僕が進めるのは悪いことに対して反語的に良い言葉を使うこと。逆はあまり推奨いたしません。

5.塩川徹也『パスカル考』

・こんな人に⇒特に該当なし

パスカル研究者の塩川徹也先生が2003年に書かれた本。オンデマンド版が2019に出ました。『パンセ』を「キリスト教護教論」の草稿として、パスカルとその関係者が置かれた状況(要するに弾圧されそうになっていた)を丹念に見ながら論を進めていく大変脳みそに負荷のかかる一冊。でも抜群に面白いです。 パスカルは若いころに名言を決めて社交界でもてはやされたことからも分かるとおり、観察と思考が鋭く表現が巧みです。一生に一回くらい「人間は考える葦である。」なんて言ってみたくないですか。 パンセには人生訓がたくさんありますし、自分なりの解釈が許されやすい哲学書です。親しみやすい哲学者だと思いますので、もっと多くの人に触れていただけたらなーと思っております(なので事あるごとに僕はパスカルの話題を出します)。 はじめての人は同じ塩川先生でも『パスカル「パンセ」を読む』をおすすめします。こちらの方がずっと読み物として面白いです。 『パスカル考』に影響を受けて、僕も2019年の締め(クリスマス会)に『パンセ』より"力なき正義は無力であり、正義なき力は圧制的である"の解釈を自分なりにさせていただきました。楽しかった。

番外編1.原田宗典『やや黄色い熱をおびた旅人』 2018年の一番良かった本。2019年に読んだものではないので番外編。紛争地帯を原田宗典さんが旅して書かれたエッセーなのですが、旅から刊行まで20年もかかっています。彼が体験を自分のものとして消化する上でそれだけの期間が必要だったのではないかと思います。その分、無理のない、すっと入ってくる重い文章です。みなに読んでほしい一冊。

番外編2.三宅香帆『人生を狂わす名著50』 読書案内、本を紹介する本です。現在、書店の棚には沢山の本が並び、結構な速度で入れ替わっていきます。でもですよ、本当に面白いものってそのごく一部だと思います。そんな状況下で一番求められるのは、目利きの案内人でしょう。この本の著者の読書量は尋常ではなく、伝える際の表現もとても上手で目利きとして信用できます。 本には向き不向きがありますので、パラパラっと見て、ちょっと気になった本をご覧になってはいかがでしょうか。本に関する本ということで、ちょっとメタなので番外編。

―― 脈絡がない、とは最初に申しましたが、最近本屋に並ぶ本が微妙なんだよね~と実家で言っていたところ、 そういう状況なら自分にとって面白かったものをちゃんと紹介したら価値があるんじゃないのと言われたのが一応のきっかけです。 2019年の前半はシェアハウスの新着図書紹介と今月の一冊紹介を頑張っていた(頑張ろうとしていた)のですが、夏からはやっていなかったので、それを補うのを兼ねてでもあります。

2020年の一冊目は須賀敦子ユルスナールの靴』でした。須賀さんのエッセーはしっとりとしていて、でも力があって。年始のようにどこか精神が慌ただしい時にはそんな文章がよく合うと思うのです。