教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

図書館員とSTS

図書館員がSTS(科学技術社会論)を勉強しているとその理由を聞かれることが多いです。自己紹介も兼ねて自分が何を考えている人間なのかを文章にしておきます。あくまで僕個人の現段階での個人的な整理です。

図書館とはどんな場所

図書館とはどんな場所でしょうか。ただ本を借りて読むだけの場所だとは、僕は考えていません。図書館は人が新しい知識に出会う場だと考えています。人が新しい知識を必要とするのは意思決定や価値判断をする必要がある場合が多いでしょう。その意思決定や価値判断の積み重ねが人生なるものを形成していくはずです。

科学的な知識と自己決定性

現代社会をざっと見たときに、人の生活を一番大きく変える知識は何でしょうか。僕はそれが科学だと考えています。日夜さまざまな科学的な発見がなされ、その成果が様々な形で世の中に反映されています。その一方で、一般人である我々はどこまでその変化を選択できているのでしょうか。

少し遠回りの話の進め方をしますが、図書館という場所は民主主義を進展させていくことを一つの使命と自己を定義しています。このことは「図書館の自由に関する宣言」や国立国会図書館法の前文を見ていただければ明らかでしょう。

比較対象として代表制民主主義の体制を考えると、たとえ選出された議員が個々人の投票結果とは異なっていても、自分が政治的な意思決定から完全に疎外されているということにはなりません(もちろん、完全に代表できているわけではありませんし、現在の制度から排除される人たちがいるのは事実ですが、それでも”まぁまぁ達成されている”と言って誤りではないはずです)。

一方、科学的な意思決定に関することに一般人である我々がどこまで参加できているかというと、途端に評価は難しくなります。”どんな技術を進めてほしいか”、”それを利用したどんな社会に住みたいか”といった選好を表明する機会はほとんどありません。

このことは科学が伝統的に、専門家が発表した論文を専門家が査読するという共同体によって推進されてきたことに依ると言って良いでしょう。科学は、現在では市民生活に大きな影響を与えるにも関わらず、そもそも一般人の関与を前提としておらず、その進展には一般人が決定に参加する余地がほとんどなかったと言えます。

”コミュニケーション”は不十分?

「では、お前はサイエンスコミュニケーションをやりたいのか?」と言いたくなるかもしれません。答えはYesでありNoです。

Yes: 科学的な情報を理解しやすく提供することは重要な要素です。意図と伝わった内容に齟齬があるならその是正のためのコミュニケーションが必要でしょう。それは”翻訳”に近いものかもしれませんし、”キュレーション”に近いものかもしれません。もしかしたら検索システムの向上によって利用者が効率的に求めている情報に短時間でたどり着けるようにすることかもしれません。これらのアプローチへの関心は強くあります。

ただ、No:コミュニケーションだけの問題で済むのは前提となる構造が正しい場合に限定されると考えています。したがってコミュニケーションだけでは不十分だというのが現在の考えです。

「構造が正しい場合に限定される」という部分をもう少し詳しく話します。一般人の科学に対する態度と専門家のそれの間に齟齬があるとき、その原因が一般人側の知識の不足だけに起因するならばコミュニケーションの円滑化によって情報の伝達率を上げれば問題は解決するでしょう。しかし、何を問題とするか/何を重要な価値と置くかの規範が異なる場合には知識の伝達だけではそこで発生している問題は解決しません。「構造が正しい場合に限定される」と言ったのは、情報の伝達元がその科学的知見が及ぼす社会的な影響について正確に認知し議題の設定をしきれている場合に限るという意味で使っています。そしてそれが強すぎる前提であることは歴史の示すとおりだと考えています。

図書館の得意不得意

図書館の特性を考えると、現実的に各分野を専門とするサブジェクトライブラリアンを置く余裕が無い以上、書誌データの分析によって科学とそのインパクトを俯瞰する方向になるだろうと考えています。

書誌データに言及したように、図書館はある程度確立した情報を扱うのを得意とします。その一方で、評価の定まる前の情報を扱うことはあまり得意ではありません。 個人的な感覚ですが情報の確立は ①プレプリントサーバの論文->②論文誌の論文->③図書の刊行->③普通件名の付与->④教科書への掲載 という順番ですが、従来の図書館が得意とするのは②以降でした。 しかし、社会と科学のことを考えると①の部分を図書館の活動の対象に積極的に含めることも検討する必要があるでしょうし、科学・技術と社会の関係を考えればEmerging Technologyと言われる萌芽的段階の技術が今後社会に与える影響を扱える方が有意義だと言えます。

そして現在の科学研究の変化を見ると⓪研究のデータ が出現しています。図書館はマクロな研究の動態などに応じて図書館はそのサービス対象を雑誌->個別の論文と広げてきたわけですので、その先に個々の論文背景にあるデータが来るのは突飛なことではないでしょう。

科学の与える影響が大きくなりその動態も変化しているならば、知識と人間の界面の一つである図書館もまたあり方を変えざるを得ないのでしょう。伝統的な守備範囲を超える必要性とそれをした時の有用性は見えているので、どのように実現できるかという部分を考えて試していくことにきっと価値があると思っています。

暫定的なアプローチ方法

以上、つらつらと自分なりの科学と社会、界面にある図書館の現状と問題をの認識を書いてきました。この状況を一気に改善するクリアカットな解はないと思ったので、広く社会と科学の関係を考えるべくSTSを勉強しています。 layman-controlに全てゆだねるではなく、議会に科学技術に関する屋上屋をかけるでもなく、参加自体を目的とするのでもなく、”公”の範囲を所与とするでもなく。メトリクスは有用だけど欠点も多く、やはり有用。 方向性としては、科学研究や技術開発の早い段階から広い利害関係者に参画してもらう場をつくることや、”漠然とした不安”など代表されにくいけれど存在しているものを析出・固着させて参照可能なドキュメント化すること(これは何を資料とするかというとても図書館的なテーマだと個人的には思っています)などが現状では見えています。一方で、構造的に誤っている場合への批判という目的をこれらで達成できるのか(そもそもして良いのか/しかし無視することはできない)は自分の中で答えが出ていません。

こんなところが僕の現在地です。