教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

"reference-able"

参照可能であるということ

世の中に多くの言葉がある。会話がある。それらが発せられた瞬間に消えていくものであることを超えようとするならば参照可能(reference-able)であることが必要なのだと思う。

見えないものを形にする

Picturing the Invisible- 冥々を写すという展覧会に参加してきた。東日本大震災から10年が経過し、ともすると忘れられそうになるこの出来事を、写真とエッセーによって思い出してもらおうという展覧会だ。日本国外、ロンドンで開催されたことに大きな意義があると思っており、少なくとも参加してくださった方がこの出来事のことを思い出したり、新しく知ってくれたことをとてもうれしく思う。

展覧会のタイトルのとおり、本来は見えないものを見える形にするという表現方法は強力なものだと思う。この方法によって、目の前に参照できる点が発生し、それを見た人どうしが会話できる。そこにあっただけの風景が「あの写真」「あの展覧会」という言い方をでき、具体的に言い表す対象が出現する。

語られなかったものを形にする

この展覧会の対をなすと思っているのが、『災禍をめぐる「記憶」と「語り」』という標葉先生が編集された本だ。

”「語られること」と「語られないこと」のあいだで、「語られるかも知れないこと」を紡ぎ出す”というこの本の紹介文で僕の言いたいことは網羅されていると思う。 展覧会の写真と同様、語られ、それが一つの本という形にまとめられることで、参照可能となった(文字通り引用できる状況となった)。

各機関や団体がさまざまな形で災害の記録をアーカイブしようとしている。たとえば国立国会図書館東日本大震災アーカイブひなぎくにはたくさんの記録が残されている。けれど、ただ保存されるだけでは十分ではなく、何らかの形で別の文脈の中に再度置かれることで言葉や会話は、そこでなされたものを超える大きな力を持つのだと思う。

たとえ出版物をすべて集めて保存したとしても、そもそも出版されていないものは保存されない。たとえ語られる可能性があったり既に語られていたとしても、保存されない。ドキュメントを扱う仕事を扱う人間は、それが重要だと思うのであれば特に、どのようにreference-ableになるかを考える必要があるのだろう。

形にされ抜け落ちるもの

その言葉や会話が発生したところから別の分脈に置かれることで、付加されるものもあれば、抜け落ちるものがもちろんある。

この何が付加され、抜け落ちるのかを考える際には、その情報自体がどのような場面で受容されるのかとセットである必要があるだろう。場合によっては許容されるし、場合によってはその変化は許容されない。この点には敏感でなければならないだろう。

結論は出ていないけれど、reference-ableという踊り場に至ったことで今日はよしとする。