教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

自転車を降りる-哲学的な思考を止める方法-

 自転車に乗るようなもの

「哲学をするとは自転車を漕ぐようなもの」というのが、学部の頃に指導教員から言われた言葉だ。彼の専門は西洋哲学。哲学的な思考方法は一度身体にしみついてしまえば、いつでも思い出すことができる、という趣旨で言ったのだろう。哲学的な思考と言うと難しそうに聞こえるが、内実は問題を適切な大きさに分割し、それぞれについて、本当にそうなのかということを考え続けることを通して「普遍的なもの」を見出そうとするだけである。そしてそのための切っ掛けとなるものを、あらゆる機会に見つけ出そうとする姿勢を伴うものだ。

確かに、僕は哲学的な思考と言われるものができるようになったのだが、同時にそれを自分の意志でやめることができなくなった。

はっきり言って、この状態は日常生活に支障をきたす。日常の知と哲学的な知というものが相互にかなり異なり、不適合を起こすからである。

そんなわけで友人には愚痴を言っていた「自転車の乗り方は教えてもらったが、降り方は教わらなかった!どうしてくれるんだ」と。もっともその友人の返答は「先生は、お前が気づいていないだけで、降り方もちゃんと教えていたと思うよ」だったのだが。

Way of Thinking を切り替える

こうして僕の自転車の降り方を求める思索が始まったわけだが、なかなか解には至らなかった。だいたい7年くらいかかっている。

解にいたったのは、ふとした瞬間だったと思う、自分が科学の考え方と政策の考え方を切り替えた瞬間を自覚した時だ(大学院からは科学技術政策・STSの方に主軸を置いている)。思考パターン(Way of Thinking)を切り替えることで哲学的な思考を止めることができる。

「自転車から降りる」「哲学的な思考を止める」ということではなく、「別の思考パターン(Way of Thinking)を呼び出して乗り換える」が正しい表現なのだろう。

言ってしまえば、取り組み方が間違っていたのである。人は何者でもない状態でいられない以上、規定された状態から外れることはできない。この場合哲学的思考を止めることはできない。できるのは他の枠に乗り換えることだ。

もちろん、解にいたるまでの100%の時間を哲学的思考に支配されていたわけではない。自覚的に思考パターンWay of Thinkingを客体として扱えるようになったのがこの時ということである。

楽になる

自分はこれで楽になったと思う。

自分の思考パターンによって隘路に押し込められているなら、その思考パターンごと外に出れば良いのである。重要な問題ならまた日を改めて取り組めば良い。

難しい部分はあるけれども、多少コントロール可能になることで隘路の息苦しさからは逃れられる。そう、哲学的な思考を自分を追い込みやすい思考パターンの一つだ。

順番としては「それ以外」の何らかの思考の方法を定義することが最初だろう。日常の認知でもいいし、科学的思考でもいい。その思考パターンを呼び出そうと練習すればたぶんできるようになる。

注意書き

  • 「先天的な哲学者」と僕が呼ぶ人たちにこれがどこまで有効かは分かりません。
  • 副作用はあると思います。意図せず自然に日常に戻れる方がより安全です。