教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

他人の生業にただ乗りしない

他人の生業にただ乗りしない

他人の生業にただ乗りしない、これは僕のスタンスの話。

専門的に技能をもって生業としていると、それをただ利用させてくれ言ってくる人が多く出てくる。

多くの場合、それはその専門性に対して無自覚なまま依頼がなされる「え~〇〇できるの?ちょっとこれやってほしいんだけど」

これが大変嫌いだ。

ちょっとくらいなんだし良いでしょ、というのが多くの場合の言い分である。分からないではない。実際に短時間で終わることも多い。

ただ、そこにリスペクトを感じない。

準備

専門性を発揮するまでには準備が必要である。今となってはすぐにできるのかもしれないが、そこにいたるまでに多くの時間を費やしてきているというケースは多い。依頼する側に見えている”ちょっと”は多くの時間の上に成り立つ”ちょっと”なのだ。

資源

専門性を発揮するために資源が動員されていることも多い。例えば画像編集であればそのために高い性能のPCを用意し、DTPソフトを用意し、ペンタブを用意しているかもしれない。

金銭を支払う

専門的な能力を借りるのであれば、特に相手がそれを生業としているならば、相応の額の報酬を用意するのが筋だと考えているし、僕の場合はそのようにしている。

大工に工房を借りるなら利用料を払うし、文筆家に原稿を依頼するなら原稿料を払う。

利用の目的が私益とか公益とかは関係なく、 報酬を用意するのが適当であるならば用意する。

第一にはその専門性に対するリスペクトであり、 第二にその時間で金銭価値化される労働ができないことへの補償だ。

”お友達価格”が適用されることがあるとしても、それはこちら側が言い出すことではなく、向こうから言われることだと思っている。

報酬の種類

結局現金が多い。

価値の解釈に幅の発生しようがないため、あまり現金による支払いは好きではなく、本当は物品に依りたいのだが、簡便さに頼って現金を選択することが多い。

食事などで礼に替えることもある。 ただ相手がその時間/コンテンツを楽しむかは分からないので関係性によるところが大きい。

支払いの基準

ここまで書いておいてなんだが、 ”ただ乗り”しないことを重要視しているので、互恵関係の時には報酬の支払いはなされない。どこかでその分お礼できるのが確実であるような場合だ。

互恵関係には長期的なものも含む、というよりも長期的な関係でないと互恵の相殺ができないので、長期的な関係は前提である。

内発的動機付けがある場合

内発的動機付けによって動いている場合、例えばミッションに共感して事業に参加してくれている場合などでは、外部から報酬を与えてしまうのは無意味どころか悪影響である。したがって、金銭的な報酬は出さないのだが、この判断基準が結構難しい。

自分の場合

まぁ、結構多くの相談を寄せていただいている。思考を加速させる存在であるとか、僕であれば辿り着ける情報があるとか思っていただいているのはありがたいことだ。

同時に”ただ乗り”は僕も許容していない。 専門職であるという自負はあるし。 なので

  • 僕にとっても面白い/有益な案件であること
  • 長期的に何らかの形で僕にお礼をしてくれること のどちらかは求めたいなぁと常々思っている。

立場上、受け取ってはいけないお礼ばかりあるので、僕が困っているときになにか助けてくれる、みたいな形のお礼が一番うれしいですかね。

-- 一応、明言しておきますが、全て本業以外での話です。本業については雇用主からお金が出ていますのでつべこべいわずにちゃんとやりますよ。