教養学党ブログ

artes liberales: 自由であるための技術

アルキメデスと教養について

(この原稿は大学3年の時に書いたものの再掲です)

第二次ポエニ戦争の際、シラクサがローマによって占領されました。 アルキメデスシラクサで研究を行っていましたし、ローマへの抵抗にも役割を果たしていたそうです。

街が占領された時に彼は砂の上に図形を書いて問題を幾何の問題を解いていました。 ローマ兵が彼を捕えようとして砂の上の図形を踏みつぶしました。アルキメデスは激昂したそうです。

当たり前ですね、自分が大切にしていたものを平気で何も価値が無いように踏みつけられたわけですから。

少し前提が長くなりましたが、同様のことを僕たちは日常においてごく自然にやってはいないでしょうか。 「価値」全般に話を広げると思考が追いつかないので、学問についてだけに限定します。

他人の学問分野を否定することってしてはいけないと考えます。 自分にとってはただの砂の地面かも知れないけれど、 相手にとっては生涯かけて取り組んでいる問題なのかもしれないから。

僕は数学というものがどうにも苦手でアルキメデスの数学の価値というのは分かりません。

しかし、彼の思考は人類の発展に役立ってきたことは間違いありません。

当然、人類社会に貢献する度合いの大小はあります。 すぐに役に立つのか、膨大な時間の後に役に立つのか そういった違いもあるでしょう。

分からない限り、それを分からないままに踏みにじるのは賢い選択とは言えないでしょう。

別の見方をしてみましょう。 まずは見る側から。

多くの人の「砂の上の図形」が図形であると分かるように 幅広い学問的な基礎、関心を持つことが大事なんだと思います。 何も知らない人だけでなく、専門一直線の人間もまた踏みにじってしまう蓋然性が他の人よりも高いでしょう。

だから、教養を学びましょう。 自分に関係ない、と言わずに多くのことに目を向けましょう。 いつか、役に立つ時が来ます。 明確な目的を持たないけれど、何かのために学ぶこと この「無目的的な学習」こそ教養を学ぶことの意味だと僕は考えています。

「大学」で勉強するというのはそういうことです。 専門だけなら別の選択肢もあるはずです。 良き市民でもありましょう。

次に見せる側の立場です。 多くの人に自分の興味の内容を話しましょう、聞いてもらいましょう。 多分、シラクサの市民はアルキメデスの図形を踏まなかったでしょう。

彼が幾何学の研究をしているのを知っており、それが街の防衛に役だっていたことを知っていたからです。

多くの人が知ってくれるように、その図形の価値を分かってくれるように発信していくことも同様に重要なのかな、と思います。

他人の研究内容をrespectすること これを忘れないようにしたいな、と考えます。 僕もともすると忘れがちになりますので。

先日、自分の(半ば)専門としている分野についてばかにされまして、 そうとう腹が立っていました。 自分の専門分野がばかにされたことにも、理解がすくないことにも。

ここまで考えると、僕に不足している点も多かったことが分かります。

締めに入りましょう。 さて、激昂したアルキメデス、彼はローマ兵に殺されました。 ローマ兵はアルキメデスの現在思考していることもアルキメデス自身の価値も分からなかったわけです。

現代でも「いくら言っても理解できない人」はいるんです。それに怒らないことです。 そう言った人を減らすのが高等教育の仕事だと最近は考えています。 特に、世代の半分以上が大学に入ってくる今の時代に求められる機能として。

願わくは、ローマの一兵卒に至るまで十分な教養ある教育を受け、 豊かな市民社会が実現することを。 あまねく人がアルキメデスの砂の上の図形の価値に気付けるようにならんことを。

そんな仕事がしたいです、なんてね。

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教養といわれるものの価値と有用性を、このブログでがんばって示していこうと思います。 専門知が死んだとかPost Truthだとか言われますが、教養という存在自体が一顧だにされていないと感じる機会が多くあります。

僕が立つ瀬は、教養が問題解決の手段として有効である、というものです。そこに問題が確かに存在するとき、あなたが最初にやることはその問題に適した道具立てを探すことでしょう。今までの自分の武器を無理矢理その状況に当てはめるのではなく。

この道具立てを探す力を仮に「教養」と定めたいと思います。意味するところは、無手勝流に問題に挑むのではなく、幅広いある程度確立されたものの考え方の中から適合的なものを引っ張ってくる素地が教養であるということです。 少し掘り下げて言えば、どこにどういった知識があるのかというマッピングとそれぞれの領域におけるWay of Thinkingの理解ができていることがここで定めている教養の中身です。

従いまして、ここでは「教養学」という専門を見せるのではなく、様々な学問的な立場を紹介することになります。文献紹介というよりも、実際に僕が課題と思っていることにどう向き合ったかを通してです。 そこに至るまでの日常的な準備についても書きます。立派な風に書きましたが要するに日記です。

その他、管理人の趣味・好きなこと・日常の雑多な思考についてもオープンにしていく予定です。

管理人について

図書館で司書という仕事をしている者です。 「真に教養ある人材を養成」すると息巻いている人文系の学部を出て、公共政策という良く分からない(そのうちに書きます)ものを対象とした大学院を修了し、現在にいたります。 SubjectはSTS (Science and Technology Studies)であると自称しています。